【物語の見方】 登場人物になりきって物語に没入するか? 観測者としての見解

小説、映画、アニメ、ゲーム、漫画。どのように物語を見ているのか?

「俺は FPS で物語を見てるけど、お前は TPS で物語を見てるでしょ? 」

友人が僕に放った言葉だ。僕がある作品を勧めてて、ネタバレも含めて語りたくウズウズしながら「早く読んでくれよ、時間かかってるなあ」催促した。そのアンサーとして返ってきた言葉。FPS=First Person Shooter ってのは会話の中の洒落っ気。First Person View が正しいだろう。(First Person Seeing はダメよね?)

どのように物語を見ているか?

友人が言うには「物語の登場人物になりきり、感情、一挙手一投足に同調して物語を味わう。主人公の目のように映像化する。主人公が嘆けば自分も身を切られてるかのように嘆く」だからこそ時間がかかるそうだ。

つまりは登場人物として物語に没入しているとのこと。

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僕は物語を常に俯瞰した目線で見ている気がする。主人公も観察対象の一人となりうる。監視カメラくらいの位置から眺めているのだろう。この監視カメラには様々な機能とフィルタがついている。自身の経験や知識、他作品とのマッチング機能、インスタントに得れる他者の意見なども含まれるだろう。もちろん描写によりカメラの位置は変えることはできるが、それは主人公の目の位置にカメラを持っていくだけ。主人公の目にはなりえずカメラを通して見ている。

時を忘れて物語に夢中になることはある。
物語に心を動かされることもある。でも物語の登場人物とはなり得ない。物語を見てる僕が存在している。

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例えば、物語世界に「主人公と友人たち」がいるとする。僕としては「こいつらと友達になれるかもな」と思うことはあれど、登場人物にはなり得ない。

この指摘は良い気がしない

友人の指摘ではじめて気付かされた訳ではないが、ブログといういい機会があるので整理しておこう。この類の指摘に触れる時にはだいたい以下の感情が湧いてくる。

  • 作品の重大なものを逃しているのでは無いかと言う不安
  • その能力に欠けているのではという不安
  • 作品を粗末に消費している罪の意識
  • 指摘されたことへの苛立ちと嫉妬

不安と苛立ちが渦巻く状態、あまり良い気分はしない訳だ。この不快さから離れるために「人それぞれ色々な見方があり、登場人物として没入する楽しみ方もあれば、俯瞰する楽しみ方もある」とササッと結論付けることも出来る。最大公約数的に納得の行く解かも知れない。

けどそれで終わるのは味気なくて寂しさも覚える。

というわけで「登場人物に成りきるほど没入しない」ものの意見として、何故没入しないのかということを考えたい。「出来ない」にはしたくないが、同じことかも知れない。なおFPV、TPVと表したが、これは想像する際の視点や人称の話では無く「登場人物に成りきって没入するかどうか」の度合いという訳である。

僕のFPV的な没入体験

問い。かつては登場人物として没入していたのか?

幼少期の絵本の時代とかはあったような気がするが、比較的早い段階で観測者側に回ったと思う。自分で本を借りられるようになったばかりのころ、図書室のカードの発行枚数はクラスで一番になるくらいは本を読んでいた。しかしそのころはすでに登場人物となるような読み方はしていなかった。

小学校高学年くらいから漫画や雑誌、実用書以外の書物はほとんど読まなくなった。他の活動に夢中になっていたのだ。

いわゆる読書としてきちんと本を読みだしたのは大学に入ってからだ。最初に読んだのはドストエフスキーの「罪と罰」だ。本を読むからには名著でスタートという気合の入り用が大学デビューらしいでしょ。

さて、問の答えは「僕も『罪と罰』で登場人物かのごとく没入した」となる。

何日もかけて、まるでラスコーリニコフであるかのように没入した経験がある。「ある正義のために殺人は是認されるのか?」との題材として眺めるのではなく「本当に大変なことをしてしまった」と震えながら読んでいた。ペテルブルグの灰色な街に住んでいるかのようだった。

ちょうど夏休みだった。午後2時30分、読み終わったあとの晩飯までの時間の持て余しようは忘れられない。どこか長いキャンプから帰ってきたかのようだった。

「罪と罰」がある時期の青年に強烈な同化を促すのは普遍的なことかも知れない。

一方で「罪と罰」が与えたもう一つのものは、単純に青春小説としての面白さだった。「このあと二人はどうなるのか?」「続きが気になる」という楽しみ方も教えてくれた。

経験を積むに連れてTPVに

しばらく次々と手を出していった。世に面白いものが沢山あることが分かった。ストーリーをなぞり、洒脱な会話や表現を楽しみ、キャラクターを浮き上がらせるように把握する。自然と頭の中に樹形図が出来ていく。誰がどんな時代に書いたのか? この人のジャンルは何なのか? 関連する作家はなんなのか? どの出版社から出ているのか? 海外文学なら訳者は誰なのか? 背景知識が増えていった。

読書量を増やすにつれて物語の登場人物かの如く没入することは薄まっていき、観測者の立場となった。

理由としては時間の問題があると思う。「8月半ばの学生街」という時は人生においてそうそう持てるものでも無い。これは僕以外の人にも当てはまるだろう。じっくりと物語に入り込み登場人物の視点で入りにこむには、まとまった時間と集中できる準備が必要だと思う。

それこそ続きは気になるし、この作品が終わればまた次の面白い作品が待っているのも知っている。(むやみな消費者である自覚はある。「開き直るなよ」と怒らないで…)

もう一つ思い当たるフシがあり、こちらが本旨かも知れない。それは心理的抵抗だ。

心理的抵抗

正直に言おう。物語に登場人物と同一化することなどをして「クソを掴まされたらどうするのか?」という打算も働くし、「ある種の公平さを失った状態で見ていいのか」というような理性もある。「自分に物語を受け止めきれるのか」不安にもなる。
物語に自分の感情を大幅に委ねる恐怖も伴う。自分が自分でなくなるという自己喪失のように思えるのだ。

これが怖くて勇気が無くブレーキが働くのかもしれない。

現実世界に帰れるような気がしない。

簡単に言うと「明日も学校に仕事頑張れるね」となれる気がしない。僕のような見方でもさえも物語が終わる「○○ロス」のようなものに巻き込まれるのだから。

ただ自己喪失というのはフェアではないかも。登場人物没入論者(?)の主張は「もっとプリミティブな自分でみようよ」と言っているだけだ。経験・知識・常識を取り払った丸腰の自分で対峙して見ようよと。そもそも「下にトランポリンがあるから飛んでも大丈夫だよ」というのが物語のメリットでもあるわけで。それでも飛べないということだ。

チキンハート……
だから僕はカメラを構えたまま物語を見るのだと思う。

なおこの観測者スタンスは、物語を見るときだけでなく世界への接しかた全般にも言える。

まとめ

整理しよう。僕が「登場人物に成りきるほど没入しない」ことに関する考察はこんなところだ。

  • 登場人物として物語に没入する機能はあった。
  • 十分な時間が足りない。もしくは集中力に欠ける。
  • いくつかの心理的抵抗がある。チキンハート。

機能については「罪と罰」という名著の力と、原初の体験だったからかも知れない。(強烈な酒の力を借りて舞い上がった状態で女の子に告白するみたい)

「物語の体験がまるで自分の体験のように人生の一部となる」とか聞くとやはり味わってみたいとも思う。現実の生活を営むなかで即座に没頭して、安全に戻れるテクニックがあるのであれば聞きたい。たとえば通勤の電車で読んでる人がいるけど、登場人物没入タイプの人はすぐに切り替えれるのだろうか?とも思う。

あ、勇気は磨き続けたいです。これはほんとに。

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 

 

余談1 音楽

このテーマ、音楽で考えるのも面白い。音楽だと「これは俺のことを歌ってる!」というのはあるんだよなあ。

なお、冒頭の友人はライブビデオを見る時には「アーティスト側」として見るそうだ。 僕はもちろん観客側である。そもそもライブハウスに行くときですらも、前の方でモッシュ!とか踊るとかは好まない。後ろで腕くんでビール飲みながら見るのが好きだ。

経験積むごとに文脈が要らなくなってきて音楽だけ楽しめるようになってきたけど、これは物語消費傾向と似てるかもしれない。

 

余談2 共感・解像度・こらえ性のなさ

共感はする。では共感の強度を高めたものが、登場人物への没入かと言われると違うと思う。別のパラメーターだ。また観測者としてカメラの解像度を上げ続けても登場人物への没入にはならないと思う。240p から 4K になったところで変わらない。これも別のパラメーターだ。

このあたりもまとめたかったのだが、話が広がりすぎて織り込むことが出来なかった。誰か他の人が研究してないかな? とすぐに検索を始めてしまう。このこらえ性の無さも登場人物としての没入を阻む要因だよなと思う。

共感したという記事がこちら。もちろん僕が15歳の女子高生になれるはずもない。 

⇒⇒⇒「響け!ユーフォニアム」を通して見る揺れる心 - カモメのリズム

 

余談3 ゲーム

ゲーム。RPGはデフォルト名を用意して欲しい派。自分の名前はつけない。無ければ仕方なく、ももたろ、さる、きじ、いぬ とか ヤムチャとか チャオズ とかでやり過ごす。

でも、ヒロインに好きな子の名前つけようとしたことはあるな。結局カモフラージュ用に他のクラスメートとかパーティーに入れたりするんだけどさ…… ハーレム作ってたSaga2、そのまま近所のファミコンショップに売っちゃってさ。知り合いに買われてしまいバレるのではないかとしばらくドキドキしたよ。それに懲りて? やらなくなったけど。

なおFPSは苦手。レースゲームもドライバーズアイは好まない。車体全部映してくれと思う。