マイルドヤンクなローカルキッズ達 ~ 真夏の夜と車と肝試しの思い出

大学から帰省した初めての夏だった。

地元に残った中学時代の友人たちは一斉に車を買っていた。

ある友人は平成初期のちょっと傷んだ国産スポーツカーに乗っていた。タイヤを変えたり、前座席はレカロシートに変えて後部座席は取っ払って軽くするなどしていた。振動がダイレクトに伝わってきて、ロードノイズが盛大に聞こえてくる居住性の悪いものだった。「頭文字D」のようなことを延々と話していた。埠頭では土曜日の夜にゼロヨンが行われているという噂も良く話していた。

ある友人は2世代前の高級セダンをフルスモークにして、白光がキツいキセノンのライトを装着し威嚇しているかのように走る。この車は高級セダンだけあって居住性は良かった。ゾロ目のナンバープレートがいかにすごいかについて力をこめて語っていた。ただし、この車で夜の駅前には行かない。駅前にはホンモノたちがたむろしているのでこんな車で行くと速攻で身ぐるみを剥がされてしまうとのことだ。○○センパイがいる時は「顔が利く」ので大丈夫だそうだ。「お前も困ったらセンパイに言え」と教えてくれた。・・・残念ながらセンパイの名前は失念してしまった。

車中のBGMはたいていがユーロビートと浜崎あゆみと良く知らない日本語のヒップホップだった。

こんな若者が車を持つのが当たり前の世界の夏の話だ。

僕は毎夜のように彼らの車に乗せてもらっていた。

ピックアップ

ケータイもカスみたいなブラウザがついたばかりの頃で、今のようになんでも出来るわけではなかった。カーナビ代わりにもならない。彼らの用途はもっぱらメールと出会い系だ。

彼らは言う。「出会い系が熱い」と。すぐに女の子と知り合いになって仲良くなれるらしい。「今何処にいる? なんだすぐ近くじゃん」 といって50km先でもどこでも迎えにいく。この時に車の名前がステータスとなる。過去何回も「おいしい思い」をしたそうだ。

かくいう僕は「街はどうだ?」 と聞かれるので「サークルがあって、合コンがあって、昼は服屋や雑貨屋を巡ったあとにカフェでまったりと過ごし、夜は近隣の女子大生と飲んで、2次会は Club で良い音楽を聴き、踊りながら終わらない夜を過ごす」という前期にあったリア充エピソードを総動員してツギハギし、愉快な毎日を過ごしているかのように答えたものだった・・・。

お互いに無粋なツッコミはしない。「お前も上手くやってるんだなあ」と声をかけあう優しさ。

結局、僕がいる夏の間に女の子をピックアップ出来たのは1回だけだった。

暇を持て余した派手な二人組みだった。アルトワゴンで、ふわふわした白いシートと造花のハイビスカス? が垂れ下がる内装。彼女らはタバコをすうので、火ついたらよく燃えるだろうなー。あぶないよ。なんてことを思った。どこから来たの? 訊ねると、同じ県に住んでいてもほとんど名前を聞かないド田舎からだった。「予定がキャンセルになったから、遊んでくれる人ボシューしてた」 とのこと。

僕たちは代替品だったけど、そのときはそれなりにお互い楽しくすごせたと思う。

一人とメールアドレスを交換した。ただの通りすがりかと思ったが意外にも秋も終わる頃までメールが来ていたので、その律儀さと健気さに驚いたものだった。もしかすると彼女たちとて特別なことだったのかも知れない。

肝試し

あの夏の記憶は夜しかない。

実家で晩ご飯を食べたあと、セダンの友人の家まで歩いて行く。そこでテレビを見たりプレステのゲームをしながら、今宵の仲間を集うべく声を掛けて行く。ついでに出会い系も探してみてメッセージを登録しておく。

閉店時間もすぎて灯りの消えたスーパーマーケットの駐車場が集合場所となる。だいたい4~5人で2、3台の車に分乗して、真夜中へ向かって走りだすのだった。

そこからボーリング 、カラオケ、峠のドライブ、港湾地域のドライブというのが定番になる。何をするでも無い。生産性という概念とはもっとも外れた行動だ。

 

そういえば、肝試しが流行った。

御札がペタペタと貼ってある山中の家。旧道のゴツゴツした手掘りのトンネル。 潰れたラブホテル。峠の電話ボックス。バブル崩壊で未完となったままの海辺の建物・・・。

「出る」という噂を聞きつけては訪れていく。「ネットで調べる」というのは誰もしなかった。本物の口コミのみによって広がっていくローカルロア。たいていの場所は「リンチ殺人」が起きていたり、「住人の頭がおかしくなり無理心中」とか、「地主の社長が首吊り」とか「対向車が突如消える」などの真偽不明なエピソード付いていた。

 

幽霊は信じない。怖がりだが怖いものは見たい。

一回だけ不思議なことがあった。

工業地帯の外れの山麓にあるビル。高度経済成長期の遺構。ある製造業大企業の社員寮跡だった。10階前後の大きな建物が数棟連なっている。

そのうちの一番奥の建物が「ヤバイ」ということだった。その建物は他の棟とは異なり、鉄柵で囲まれて侵入出来ないようになっていた。しかし一箇所だけ鉄柵に梯子が掛けられており、そこから入ることが出来たのだが・・・。

さらに6階が真っ赤な鉄の扉で完全に「封鎖」されている。その6階で「何か」が起こったらしい・・・。

建物中央の階段を使って6階にたどり着くことは出来ないので、朽ちかけた非常階段で屋上まで上がり、屋上から降りていこうという話になった。5人で懐中電灯を照らしながら、非常階段を上がっていく。建築業に従事する友人が「いいか? 体重をいきなり預けるなよ。踏み抜く恐れがあるから安全にな」と言った。なんだか働く男への頼もしさと嫉妬を感じた。

ゴーン、ゴーンといった金属音がこだまする。遠くの方まで聞こえそうでヒヤヒヤした。なんとか屋上についた。もちろん「屋上から飛び降りる謎の人影」の噂が絶えない場所、出来るだけ端の方は視界に入れないようにした。

空を見上げると星がキレイだった。真夏の昼の熱気が嘘のようにとても冷たい空気。たぶんビビっていたのだろう。屋上で一服して、いよいよ中央の階段を下っていく。階数表示のレトロなフォントがなんとも気持ち悪かった。段々と口数が少なくなる。

7階から6階へ・・・ 

しかし、6階への階段は上階からも封鎖されていた。踊り場は通れないように鉄柵と資材でガッチリと覆われている。覗きこんでも6階の様子は伺い知れなかった。

このまま引き返すしかないか・・・。ちょっとだけ7階の様子を見て回ろう。

一つ目の部屋を開ける。なんとも昭和の香りのする懐かしい構造の部屋だった。部屋には何もなく窓ガラスもきちんと残っている。

二つ目の部屋を開ける。一瞬赤いスプレーで書かれた文字が壁に見えてちょっとびっくりする。先立っての探検隊がマーキングをしたようだった。とくに何もなさそうだ。

三つ目の部屋のドアを開ける・・・。その時なんとなく耳がキーンとなった。

直後ドンッ!!ドンッ!! という音がした!!!

 

 

・・・なんと自分たちが開けた部屋とは全く関係の無い部屋のドアが二つ開いたのだ。(705号室の扉を開けたら、ちょっと離れた712号室、713号室のドアが開いたような感じ)

みんな「うおっ!!」という声を上げて走りだす!!階段を一目散に駆け上がる!! 余り覚えていないがなんとか屋上について落ち着いたのち顔を見合わせた・・・。

「「ビビったぁー!!」」

扉は揺れているように見えた。もとから開いていたのかも知れない。風や気圧の影響かは今も分からない。同じような肝試しの若者の悪戯か? それにしては車も気配もなかった。

あれはイヤな感じだった。そのあと静かかつ超高速に非常階段を降りて、車へと戻っていった。確認したが、直接何かを見たというヤツはいなかった。一人「おっさんがボソボソ怒っているような声」が聞こえたと言ってた。他の人には聞こえなかったので気のせいだろうとか、吹いてんじゃねーよとか思ったが武勇伝としては悪くない。「「マジかよ!」」と乗っておいた。

あの夏とそれからー

あの夏の真夜中に随分と色々なところへ行った。一晩で300kmほど走ったこともある。もう朝の方が近くなった時間帯に国道沿いのドライブインで味付けの濃いうどんだかチャーハンだかを食べて解散するのが決まりだった。

僕はたいてい助手席で、VFD管が眩しく輝くカーオディオのイコライザをいじるか、地図を片手に行き先を指示するようなことをしていただけだったけど。

来年はもっと別の地域へ遠征に行こうなどという話もしていた。

だが、結局その年だけだった。僕も大学のある街に居場所を見つけて次の年からは長期間帰省することも無くなった。そして彼らももう肝試しなどはしなかったらしい。

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数年前の夏こと、僕は東京で消耗(笑)していた。

帰省して久々に彼らに会った。国産スポーツカー君宅の庭でバーベキューをした。健全な昼の時間帯からである。セダン君は職場で貰ったらしい野菜を持ってきた。とても美味かった。車庫にはファミリー向けのワゴンが停車していた。

みなそれぞれ充実した毎日を送っているようだった。

そういえば例のビルは解体され更地になったそうだ。

僕はその年で務めていた会社を辞めて、しばらく放浪生活をすることになった。

あの夏の夜、山沿いの道から遠くの方にある工業地帯の灯りを眺めるのが好きだったな。夜は無限にあるようで、車があれば何でも出来るようだった。書いている途中で狂ったようなバニラの車用芳香剤の香りを思い出した。

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廃墟といえど所有者のある物件への不法侵入は犯罪となります

すっかり大人になった今、こんな注釈をつけてブログを書く。

今年もまた夏がやってくる。